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和田勇「東京オリンピックを呼んだ男」フジスペシャルドラマ 

和田勇の名前はご存知だろうか。昭和34年に在米日系米国人として、東京にオリンピックを呼んだ男として、
東京オリンピック準備招致委員会委員に選ばれた日系実業家である。
1964年オリンピック大会の開催候補地として、当時は東京のほかに
米国のデトロイト、オーストリアのウィーン、ベルギーのブリュッセルも
名乗りを上げていた。開催地が決定された1959年(昭和34年)は、
太平洋戦争での日本の敗戦から十数年経過し、国際的な評価は低く
国内のインフラ整備はデトロイトやウイーンの方が都市機能を大きく
上回っていた。  しかし、国際五輪委員による開催地投票結果は
合計58票中、東京が34票、デトロイト10票、ウイーン9票、ブリュッセル
5票で圧倒的な差で勝利した。 なぜそのような逆転劇が起きたのか
その奇跡を辿って見ることにした。

東京開催への大きな推進力となったのがロサンゼルス在住の日系
二世、和田勇である。和歌山県日高地方出身の貧しい出稼ぎ移民の
子としてワシントン州ベリングハムで生まれた和田氏は、一代で青果
商として成功し、30歳前半ながら日系食料品店70店の協同組合の
理事長に就任する。1949年の全米水泳選手権にフジヤマのトビウオ
と異名を持つ古橋廣之進や橋爪四郎らが出場した際、自邸を日本
選手の宿舎として提供し、彼らを支えた。

これがきっかけとなり、東京オリンピック準備招致委員会委員に選ば
れることになる。日本政府の依頼により、中南米IOC委員13名の票集め
という重大任務をまかされ、勇は各地で、日本開催への熱い思いを語り、
協力を訴えた。日本政府は外貨不足で、この「中南米工作」は勇の申し出
により、費用は勇の自費。全くのボランティアで遂行された。
依頼交渉に難航する国もあり、パナマでは、米国寄りのスーザ代表を説得
するのに10日間を要したそうです。
正子夫人も地元パナマのドレスを着用し、訪問先国の夫人に日本の着物
を着せたり、細やかな気配りを怠らなかったそうです。
この行脚で、勇は歴訪各国の「日本・東京」開催への同意を確信したという。
そしてその思いは、開催地東京で実現することになる。

私財を投げ打って招致に尽力した和田勇の功績は多大のもので、日本の
経済発展の礎にもなり、日本の高度成長にも繋がった。また、日系社会の
福祉にも力を注ぎ、日本と米国の架け橋にもなった。



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